2001年12月1日土曜日

いわゆる「体育会」的なもの

「紺青」2002 Vol. 21 (2001年会報) に寄稿


いわゆる「体育会」的なもの


たまにではあるが、悪いものを食べて寝た晩など、紐の夢を見ることがある。何か差し迫った状況の中、必死でなにかの紐を結ぼうとするのだが、うまく行かない。状況はどんどん悪化して行く。だれかに大声でせきたてられているのだが、どうしても「舫結び」のやり方が思い出せない。「わあ、どうしよう」というところで目が覚める。ヨット部でクルーをしていたときスキッパーから怒られた経験が、いまだにトラウマとして残っているのだ。

ことほどさように、僕はできの悪いクルーであった。もともと体育会ヨット部に入部したのもスポーツが苦手であるくせにスポーツ選手にあこがれていたため。普通の運動部だったら中学高校からの経験者がうなるほどいるだろうが、ヨットなぞやっている高校生は少ないから同じスタートラインで勝負できる。ひょっとしたら自分もいいところまでいけるかも知れないという期待があったから。でも入部早々、その期待が甘かったことをさんざんに思い知らされることとなった。

それでもなんとか四回生までヨット部を続け、最後は全日本にも出ることが出来たのは、かなりラッキーだった。郷にいれば郷に従え、朱に交われば赤くなる。上級生になると入部したときの苦労は何とやら、スナイプの上で怒鳴り散らすスキッパーとなっていた。クルーの丸山清喜君には今でも悪いことをしたと思っている。でも当時はそうでなければ勝てないと思っていた。

卒業して社会人になっても、しばらくはディンギーのクラブ・レースなぞに出たが、問題はクルー。なり手がなかった。家内をうまく言いくるめて一緒に乗って貰うのだが、続かない。あんたはあまりに serious だという。レースとなれば遊びじゃないのだから真剣にやらねばならないと説明しても、日本人はテンションが強すぎてヨットには向いてないと暴言を吐く。家内はフランス人でブルターニュの海で小さいときからディンギーに乗っていた。ご存じのようにあの辺のディンギー乗りは凄い。でも云っている意味がよくわからなかった。

ようやく家内の云っていることがわかったのは、ベネズエラに駐在したとき。ビーチ・クラブでスナイプに乗ることになって、あるとき知り合ったフランス人の若者にちょっとスナイプを貸してやったが、彼の乗り方にまさに驚倒した。家内と二人で出ていったのだが、しばらくすると家内を下に座らせて自分でバランスをとり、完全にティラーを放して、セールのトリムとバランスだけで自由自在にスナイプを操りだしたのである。あれはとてもまねが出来ない。後で家内に聞くと、かれは完全にリラックスしていて、冗談いいながらの楽しいセーリングだった由。あんたとえらい違いだったと笑われた。

日本のセーリングの歴史も結構長くなった。アメリカズカップにも何度も出場できるぐらい資金的にも余裕が出てきている。でもセーリングの技術水準はまだまだ低いと認めざるをえない。特にうまいスキッパーの数が少なく、底辺が育っていないように思う。どうも選手育成の段階における、硬直的な上下関係に基づく練習風土、いわゆる「体育会」的風土がそれを阻んでいるように思う。どのスポーツでもそうだが、歯を食いしばってただただ努力するやりかたでは、ある一定のレベルには到達してもそれ以上は難しい。特にヨットのような個人競技の色彩が強く、遊びのファクターが大きいスポーツでは、自由に楽しみながら技を極めるという姿勢が大切ではないか。

「何を今更、今はもうそういうやり方で練習しているよ」というなら、これほど嬉しいことはない。

橋本尚幸(S43卒、スナイプ)